名西郡医師会の沿革

 名西郡は名西山分と里分に分かれ、地勢上全くその状況は異なる。
 名西山分は鮎喰川上流より上分上山、下分上山、神領、鬼籠野、阿野の五箇村からなり、その90%は山林である。
 里分は石井、高川原、高原、藍畑、浦庄及び入田村からなりこれらの町村は、合併により神山町、石井町となり入田村は徳島市に編入された。
 医師会は神山町、石井町の医師を加えて組織している。藩制時代の範医は入田村編纂の村史を引用しその大略を記すこととする。

≪神山町≫
 当地方は山間部であるため開業する者も少なく、その医療も福島義一著「阿波の医学史」のように漢方医であり、薬剤は木草木皮を用いた煎剤であった。しかし、開業医はかなり古い時代から存在していたことがわかる。上分上山地域には寛文6年、麻植郡川田村より移住、神山町上分字江島にて開業した、漢方医金山六郎兵衛があり、また小崎良硯、齋藤通玄、渡辺衛平に医術を学んだ。杏斉は明治3年漢方内外医術、内外免許を受け上分にて開業。明治17年県会議員、大正17年まで村長、村郡会議員を勤めた。綏攝、初男、泰一、と代々医師であった。
 上分入手には漢方医、山田円庵があり藩制後期に開業、農業に従い漢学塾を開いて山村の子弟の教育に当たった。
 神山町上分字立岩には漢方医石丸孝伯があり、明治17年上分小学校分校の教師であった。下分地域には古川玄隆があり、香川県大川郡より来て稲原河野家にて漢方医術を河野悌庵に学び、子慶太もまた医学を修めた父の業を継いだ。文久3年生まれ。
 下分稲原には河野家があり、天保年間に死んだ考庵、多善、悌庵、原庵と代々漢方医であった。西洋医学医師は来斉、弟通雄、通孝、守邦と現代にいたっている。神領地域には、渭津より来住した佐久田高加があり名暦2年、大野地庄野に寄留した。また脇部弥平があり文化6年4月神領に居住した。神領奇井に津田良aがあり麻植郡東山より文久3年来住。この人は外科にすぐれ膿瘍に挿入して膿瘍頚を「エッチェン」し排膿する方法を案出した。後世にその名を紙治療として残している。
 明治5年田中良療、また松島文鳴があり、麻植郡児島村より来往した。藤原永庵は鬼籠野より来往した。長崎で医術を学び、明治8年小野にて開業。その弟子の文達は花柳病の名手として遠く徳島より診察を受けたいと来村したと伝えられる。当時医療用水銀が少ないため鏡の裏の水銀剤を服用したと聞く。
 鬼籠野地域では、藩制当時の医師の記載なく不明である。阿野地域には開業医が少なくただ安永5年河野孝療があり、寛政8年河野基陛の養子となり眼科医となった。等の次男孝達は父の業を継いだ。この間の医療を考えるには津田良aの紙治療、藤原永庵の子弟文達の花柳病に対する水銀治療は共に現代医学に通ずるものあり興味深い。

≪石井町≫
 里文の藩制当時の資料は乏しい。古老の話しでは、石井においては手束盛太郎があり、寛永2年生まれ、漢方医。二代良之(安永)三代龍見(寛政)四代民益(天保)五代会造(天保)六代尚真(安政)と続き、西洋医学としては正胤、会胤、昭胤と現在に至る。
 また西高原には、松原修徳があり、漢方医西洋医師の時代になったが、福島義一によれば、徳島県立医学校が明治13年に開設され、明治16年甲種医学校に昇格、校長三浦浩一は県民の尊敬を受けた。当時の生徒名簿中、名西郡には、多田貞、吉川蕃、盛市郎、松原増太郎、原田九思、渋市薫三郎、若林安太郎、仁木寛太郎があった。山分の吉川蕃は吉川玄隆の三男、四男谷五郎は徳島山内家(山内谷五郎)に入り医業をついだ。六男孝斉は東京で医業に従事。里分には盛市郎があり、名西郡初代医師会長になった。養子新之助(京大教授)、弥寿雄(大阪医大教授)もいる。原田九思は二代会長となる。養子為雄(戦死)、長男篤行があり、まだ為雄の長男邦彦がある。三代会長、富野佳照には養子徳があり、四代会長遠藤肇の小林太郎、五代会長佐々木高助、長男頼章、次男大ニ(戦死)、六代会長手束会胤、長男昭胤、七代会長佐々木頼章と続く。